おでかけ

【福田村事件】もう1回観たいが観るのが辛い映画!森達也監督は劇映画を撮っても森達也だった(ネタバレあり)

学生時代に、森達也監督の講義を受講していたこともあり、ずっと気になっていた映画『福田村事件』。

上映している劇場が限られていることもあり、なかなかタイミングが合わずにいましたが、Morc阿佐ヶ谷でやっと観ることが出来ました。

森監督の作品を見るのは、2016年に佐村河内守の素顔に迫った『FAKE』以来7年ぶりです。

 

 

 

同時並行でも丁寧に描かれる登場人物たちの背景

 

今回は映画を純粋に楽しむため、あえて事前に何も情報を仕入れずに見に行きました。

恥ずかしながら、福田村事件のことも全く知らなかったです。

 

やすじゅん
知っていたのは、森監督が作る作品であることと、好きな俳優である井浦新さんが主演を務めていることくらい!

 

なので、関東大震災が起こる前の前半のストーリーは、「この映画は何を描いていて、何をテーマにしているんだ?」と素朴な疑問を感じてしまいました。

というのも、様々な人たちの物語が同時並行で描かれているのです。

  • 澤田智一(井浦新)と静子(田中麗奈)の夫婦関係のゆがみやひずみ
  • 沼部新助(永山瑛太)率いる薬売りの行商団の行商の様子
  • 田中倉蔵(東出昌大)と島村咲江(コムアイ)の情事
  • 井草貞次(柄本明)、井草茂次(松浦祐也)、井草マス(向里祐香)など井草家の秘密
  • 恩田楓(木竜麻生)の記者としての信念

他にも、村長である田向龍一(豊原功補)や在郷軍人会の分会長である長谷川秀吉(水道橋博士)、東京の劇作家である平澤計七(カトウシンスケ)などが存在感マシマシで出てきます。

たまに聞き取りづらいセリフがあったりもして、この後どのようにストーリーが進むのか全く理解できませんでした。

 

惹き込まれる世界観

 

そのような状況だったにも関わらず、全然飽きないというか、むしろどんどん惹き込まれる世界観。

派手さはないので、ともすればつまらなく感じてしまうのに、一人一人の人間の個性や考えが容易に想像できるくらい丁寧に人間性が描かれています。

また、それぞれのストーリーや映像にも適度なメリハリがあり、全く飽きないどころか夢中になって観てしまっていました。

 

見事なラストへの伏線

 

これだけ様々な人にスポットを当てていて、「ちゃんとエンディングまでに回収できるのか」という素人的な不安もありましたが、結果的にはこれらの描写がすべてクライマックスに向けた伏線になっていました。

例えば、田中倉蔵(東出昌大)と島村咲江(コムアイ)の情事は、澤田智一(井浦新)と静子(田中麗奈)の関係性にも大きな影響を与えて、クライマックスでの静子の「あなた、また何もしないつもり?」という言葉に重みを与えていました。

また、井草家の秘密は、井草マスとやり直したいと思っていた井草茂次(松浦祐也)が、出来損ないではない姿をマスに見せたいという想いを芽生えさせ、最後の残虐な殺戮に加わる一つの要因になったように思えます。

一見とっ散らかっているようなそれぞれのストーリーが、最後にちゃんと紐づくのは本当に見事でした。

 

澤田静子(田中麗奈)の小悪魔感

 

個人的には、澤田静子(田中麗奈)の、現代でいうところの小悪魔的な振る舞いにも心を掴まれました。

もちろん、意図的に田中倉蔵(東出昌大)を誘惑したり、澤田智一(井浦新)とお風呂での会話を楽しんだりしているのですが、どこか天然というか天真爛漫というか、自分の気持ちに正直に動いてしまう純粋さと(ある意味での)幼さを兼ね備えた女性を田中麗奈さんが見事に演じていた感じがします。

その自分の気持ちに正直に動いてしまう純粋さや芯の強さが、色恋沙汰だけではなく、行商団が村民に囲まれる場面でも活きていました。

 

 

関東大震災により動き出すストーリー

 

映画の中盤になって関東大震災が起こるのですが、大きな災害による物理的な被害が今回のテーマではありません。

その大災害をトリガーに引き起こされた、「人間が抱える危うさ」や「差別」がテーマ。

混乱と疑心暗鬼の社会の中で、朝鮮人が井戸に毒を入れたとか、朝鮮人が略奪や放火をしたといった、朝鮮人を敵とするような流言飛語(根拠のないうわさ)が飛び交います。

内務省からの通達もあり、襲ってくる朝鮮人から村と家族を守るべく、村民たちは自警団を組織しました。

 

根底にある差別

 

今回の映画における差別の中心は「朝鮮人」ではありましたが、行商団も被差別部落の出身だったり、新聞記者の恩田楓(木竜麻生)が男性であれば言われないであろう言葉を投げかけられていたり、根底に差別が根付いている世界が描かれていました。

これは、100年前の世界だからそのように描かれていたというより、程度の差こそあれ今も変わらない現代への皮肉も込められていたような気がします。

 

セリフだけの回顧シーン

 

最も印象的だったシーンの1つは、澤田智一(井浦新)が静子(田中麗奈)に対して、朝鮮に居住していた際に自分が体験した悲劇(提岩里教会事件)を話すシーン。

普通の映画であれば、ここで当時の回顧シーンを映像として挟むのでしょうが、井浦新さんが見事にセリフだけでその惨状や澤田智一の心の傷を表現していました。

 

やすじゅん
対峙する田中麗奈さんの熱演も含めて、この映画のポイントの1つとなるシーンを見事に演じていたのが印象的だった!

 

映画に厚みを与えた亀戸事件

 

また、平澤計七(カトウシンスケ)が斬首されたシーンも心に残りました。

映画を見終わった後に、これは「亀戸事件」という実際に過去に起きた出来事だと知りました。

関東大震災後の混乱の中で、朝鮮人だけではなく、国家体制へ批判的な言論活動をしていた活動家も警察によって殺害されたそうです。

実際に過去に起きた出来事であるのはもちろんのこと、映画の中にその事件も取り込むことでストーリーに厚みが生み出された感じがしています。

これは、福田村だけに留まらない世の中の動きであり、権力の象徴を示すエピソードとして、最後の千葉日日新聞の記者である恩田楓(木竜麻生)の言動がより心に響く布石になりました。

 

 

誰も止められなかった悲劇

 

映画の終盤にとうとう悲劇が起こります。

薬売りの行商団が、朝鮮人と誤って判断されて村民たちに次々に殺されてしまいます。

中には、小さな子供や妊婦もいました。

沼部新助(永山瑛太)が殺される直前に発した「朝鮮人だったら殺していいんか?」という言葉は、本来であればハッとさせられる言葉。

それでも、集団心理の前ではあまりに無力でした。

 

都合の良い情報だけでの正当化

 

村民たちが行商団を殺害する前、村長の田向龍一(豊原功補)をはじめ、澤田智一(井浦新)も静子(田中麗奈)も、興奮する長谷川秀吉(水道橋博士)を落ち着かせようとしました。

でも、澤田智一(井浦新)に対して長谷川秀吉(水道橋博士)が、「お前は朝鮮に住んでいたから、朝鮮人の肩を持つのか」と言ったように、自分の都合の良い情報(自分の考えを納得させる情報)だけを持ってきて、自分を正当化させてしまう怖さを水道橋博士が見事に演じていました。

ただ、自分の都合の良い情報で自分を正当化するなんて、みんな普段から意識的にも無意識的にも行ってしまう行動。

本当に人間の弱さ・怖さ・脆さを考えさせられました。

 

鑑賞者だからこその怖さ

 

村民が行商団をむごたらしく殺していくシーンでは、もどかしさ・無力さ・人間の怖さが一気に襲ってきました。

でも、それは、映画という作品の鑑賞者として、その偏り具合や事実との乖離を客観的に見えているから。

もし自分が当事者としてその場にいた時に、この客観的な感覚を持っていられるのかわからないという不安・弱さ・情けなさも同時に芽生えて怖くなりました。

本当に目を背けたかったし、心が引き裂かれそうでした。

しかし、冷静さを失った集団においては、あっさりと引き金は引かれるし、一度引かれた引き金は周りを巻き込み大きな渦となり、もうその以前の状態には戻れない怖さを痛感させられました。

 

メディア・ジャーナリズムへの強い想い

 

事件後、「記事として書かないでくれ」とお願いする村長に対して、千葉日日新聞の記者である恩田楓(木竜麻生)が「書きます」と断言したシーンが印象的でした。

権力を監視する。

埋もれ行く理不尽を世の中に伝える。

あるべき社会になるための考えるきっかけを与える。

そのようなメディアやジャーナリズムとしての役割を恩田楓(木竜麻生)で体現させることで、森監督自身の想いを世の中に伝えている感じがしました。

 

 

感想

 

見終わってから、ずっとこの映画のことを考えています。

こんな映画は初めてかもしれません。

 

もう1回観たいです!

でも、もう1回観るのが本当に辛く感じるくらい、重たい映画です。

過去の事件を扱っていながら、まるで現代の映し鏡のような映画。

 

「あぁ、面白かった」では決して終われない。

 

自分は差別に加担していないと言えるのか。

自分の中に、社会に迎合した差別意識が(潜在的にも)ないか。

 

そんなことを考えさせられるという意味では、映画の持つ力、メディアの持つ力が最大限に発揮されている作品だと思います。

これまで社会派ドキュメンタリー作品を手掛けてきた森達也監督。

劇映画を撮っても、やはり森達也でした。

 

-おでかけ
-,